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三条会「失われた時を求めて~第7のコース『見出された時』~」

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◎忘れえぬ「時」が来て「作品」を生きる 公演史・劇団史・個人史の交点で
 -三条会版「失われた時を求めて」の解説にかえて
 後藤隆基

 そしてある日、すべてが変わる――。

 三条会の「失われた時を求めて~第7のコース『見出された時』~」は、こんな言葉で幕をあけた。公演からひと月が経った今なお、この一言のはらむ〈意味〉が、これほど重く感じられるとは予想もしなかった。もちろんその〈意味〉とは、原作小説の解釈などではなく、舞台をみている自分が勝手に付与していたものなのだけれど、この「ある日、すべてが変わ」ってしまうということは、三条会アトリエにいた誰もが共有しえた感覚だったのではないだろうか。もしかするとそれは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』とはまったく関わりのない価値観である。けれども、三条会の「失われた時を求めて」にとっては、欠くべからざる価値観であったようにも思われる。とすると、それは同時に、三条会を媒介として、私たちがプルーストとつながりうる瞬間であったかもしれないのだ。

 2011年3月11日に地震が起きて、世界はすっかり変わってしまいました。以来、自分に何ができるのかということをずっと考えています。僕は、演劇を作ることを仕事としているのですが、被災者に向けて演劇作品を作ることは出来そうにありません。でも、震災があったという事実のもと、被災してない人に向けて演劇を作ることはできるかもしれません。(関美能留「ご挨拶」当日配布パンフレットより)

 3月11日14時46分18秒に起こった東北地方太平洋沖地震と、そこから拡大し、現在も余波の続く東日本大震災。私たちにとっての「ある日」は、具体的な日付として存在し、実際に日常というものがすっかり変わってしまった。三条会の「失われた時を求めて~第7のコース『見出された時』~」が見せてくれたのは、そういう《時》のなかに私たちがいるという、シンプルでありながら、けっして手離してはならない一事である。また同作はおそらく、震災を経てつくられ上演された、もっとも早い演劇作品であろう。その即時性や、演出家のいう〈被災者・震災があったという事実・被災してない人〉という距離感覚も含めて、三条会版「見出された時」には、私たちがいま、どのような《時》のなかに居場所を占めているのかを見つめ直すための手がかりがあったように思う。

*

 千葉市を拠点に活動する三条会が、昨年から1年の《時》をかけて、マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』を劇化した。全7篇の原作を7つのコース-「スワン家の方へ」「花咲く乙女たちのかげに」「ゲルマントの方」「ソドムとゴモラ」「囚われた女」「消え去ったアルベルチーヌ」「見出された時」-に置き換えて、ほぼ毎月1本ずつ連続上演するという、なんとも野心的(無茶?)な試みである。昨年5月に第1のコースが開幕し、第5のコース(2010年11月)と第6のコース(2011年2月)の間にシェイクスピア作「冬物語」(ザ・スズナリ、2011年1月)を挿みながら、この3月、ついに完結の日を迎えたのだった。

 残念ながら筆者は、第5のコースと第6のコースしかみていない。もっと正直に白状すれば、原作もろくに読んでいない。かの有名なマドレーヌの話さえ、ほとんど記憶の埒外にある。けれども、7本それぞれが独立した作品として構成されていると小耳に挿んでいたし、ここ数年来、三条会の舞台をみてきた回数だけは人後に落ちないつもりだから、おそらく予習をしなくても楽しい演劇体験ができることは、わかっている。と、内心「わからなかったらどうしよう…」と不安がりながらもそんな素振りは微塵も見せず、いっそ自分の「失われた時を求めて」から臨めばいいと、やけっぱちのように肚をきめていた。事実、みることのできた2つのコースは、個々の舞台として立派に成立していたし、第5のコースにはそれまでのあらすじを明快に語ってくれる場面があったり、第6のコースはあたかも総集編のような賑々しい趣向であった。むろん最初から全作品を通観していたなら、もっと深い部分にふれられただろうことは間違いないのだけれど。

 ここでちょっと立ち止まって、読者諸賢の中には、三条会という劇団を知らない方もおられるだろうから、唐突に紹介を試みたい。1997年、演出の関美能留を中心に旗揚げされた、千葉市を拠点に活動する劇団である。三島由紀夫作品を原点に、ギリシャ悲劇・喜劇、シェイクスピア、オニール、オルコット、森鷗外、武田泰淳、安部公房、寺山修司、唐十郎、平田オリザ、前田司郎…など、文字通り〈古今東西〉の戯曲・小説をあつかってきた。それから忘れてはいけないのは、主宰の関美能留が専業的な演出家であること。自ら戯曲を書かない、ようは作家ではないということである。そうしたスタイルの演出家は少なくない、が、けっして多くもない。もう少し補足すれば、原作のストーリーラインや登場人物を忠実にたどるだけではなく、時にそれらを再構成しながら、原作の物語時間とは別の時間を同居・併走させて、舞台上に多層の劇時間をつくりだしていく。軽みと遊び心あふれる手つきの鮮やかさに、関美能留という演出家の特異な魅力を感じるのだが、この小文を書きすすめる中で、それが多少なり浮かびあがることを願う。

 とまれ許されたスペースに限りがあるので、来歴などの詳細は劇団HPや、wonderlandに掲載されているインタビュー記事を参照されたい。ひとまずここでは、今回のプルーストの舞台化が、三条会のスタンスにおいては突飛な試みでも奇を衒ったものでもなく、その想定外さ加減がむしろ想定内のものであり、劇団としての流れに則った公演だったということを確認しておきたい。

 なかなか「見出された時」の話がすすまない。ちょっと舞台と関連づけるために、筆者と三条会の、失われた時を求めてみようか。初めて三条会を観たのは、2004年のこまばアゴラ劇場公演、三島由紀夫の『近代能楽集』から「班女」と「卒塔婆小町」を一つの作品として連続的につなげるという作品だった。スキンヘッドにスーツの男(中村岳人)が、何やらエヘラエヘラと舞台を歩きまわっている。そこへ、純白のウェディングドレスを着た、これまたスキンヘッドにヒゲの屈強な男(榊原毅)が現れ、おもむろに「班女」の実子のせりふを語りはじめる。あの衝撃は忘れえぬ記憶のひとつである。

 それ以来、能うかぎり、三条会という劇団、関美能留という演出家を追いかけてきた。ついでだから、過去に書き散らした三条会に関する文章を読み返してみると、その大半で、関美能留の〈時間〉についてふれていたことに気づく。いくつかの文章ではタイトル自体に「時間」という単語を使っており、どうやら、三条会の演劇作品の重要なモチーフは〈時間〉ではないかと、常から考えていたらしい。まさに《時》がテーマであるプルーストの『失われた時を求めて』の舞台化は、まこと理に適った公演なのだ。

 三条会の舞台は、ある原作があって、その原作のとおり事を運びながら、原作とはまったく異なる劇世界が舞台に立ち現れるところに一つの眼目がある。先に述べた『近代能楽集』などは、基本的に原作のプロットに沿っているし、せりふも忠実に語られる。が、背後の状況の操作如何で、演劇として舞台に現れる姿はガラリと相貌を変える。自分が、作家なり作品なりについて抱いていたイメージや固定観念は、あっさり裏切られ、一見「なんじゃこりゃ!?」という世界に混乱するのだが、生き生きと躍動する俳優や、目にも耳にも愉快な演出など、いわく言い難い楽しさに浸っているうち、不図、その作品の大事な部分にふれたような瞬間が訪れる。関美能留の演出とは、戯曲、小説の別を問わず、原作のエッセンスを抽出する作業だといってもいい。

 だから、今回の「失われた時を求めて」連続上演も、人によって「これのどこがプルーストなのだ、『失われた時を求めて』なのだ」と訝しむ観客がいたっておかしくはない。そうなのだ。たしかに「どこがプルースト?」という疑問は、誰の脳裏にも去来しただろう。けれども、筆者なぞは、そもそもプルーストとは何か知らないものだから、どこがも何も、そこに展開している舞台がプルーストなのだと開き直るほか術はなかったし、肝心なのは、プルーストの作品を通して現出された舞台が、いかなるものであったか、ということに尽きる。三条会が失われた時を求めた果てにたどり着いた「見出された時」と、偶々三条会の過去を知る筆者がみた「見出された時」の交点に、どのような《時》が見出されたのか。その答えを知りたいのは、誰より筆者自身なのだが。

 長い枕のあとで、この小文もようやく三条会「失われた時を求めて~第7のコース『見出された時』~」に入っていくことになる。失われた《時》を求め、それを見出すことは、けっして容易ではないのだと改めて痛感しながら、回らぬ筆先を叱咤していかねばなるまい。この先も長くなりそうです、と前もって断ってみる。が、何と言っても、原作はプルーストの『失われた時を求めて』なのだから、そして三条会が1年という《時》をかけて到達した完結篇なのだから、たとえ冗長になり、脈絡を見失ったとしても、しばしの間、どうか我慢して、お付き合いいただけたら幸甚である。

*

 JR千葉駅から歩いて10数分、繁華街からやや離れたビルの3階にある三条会アトリエ。まず、舞台空間のスケッチからはじめよう。蛍光灯のフラットな明かりの下、客席正面の床部分が基本的な演技スペースとなる。ソファが置かれたその奥に、人ひとりの身長ほど高くなった場所(そこに上れば、座っても天井に頭がついてしまいそうだ)があり、右手にはその高みに向かって階段状に設えられた舞台装置と、3つの段それぞれに机が1脚ずつ乗っている。

 開場時から聞こえていたラヴェル作曲「ボレロ」が終わると、開演である。客入れで「ボレロ」が使われるのは、第1のコースからの約束事であるらしく、三条会版「失われた時を求めて」の底には常に「ボレロ」が流れていた、ということになる。主宰の関美能留のあいさつに続き、ソファに寝ていた俳優(渡部友一郎)が公演タイトルを言ったところで、学校の始業ベルを思わせるチャイムが鳴り響く。と、彼はおもむろに起き上がり、この小文の冒頭にも掲げたせりふを言いながら、アトリエの床に字を書くような動作をはじめる。

 「そしてある日、すべてが変わる――」

 あとで聞くと、これは映画版『見出された時』(ラウス・ルイス監督、1999年)のせりふだという。原作など気にしないと言いつつコッソリ文庫本を繰ったものの、まるで見当たらずに臍を噛んでいた。まさか映画からとは気がつかなかったのだが、このせりふが、三条会版「見出された時」の鍵言葉となる。などと、解説を気どったところヘ「viva la vida」が流れ、舞台の奥から俳優(橋口久男)が登場して「0歳やります」と言い、赤子の泣き真似をする。そして「踊ります」と言って踊りだし、右手の机の下にかくれる。その後も、10歳(大川潤子)、20歳(立崎真紀子)、30歳(近藤佑子)と、年齢に応じた行為と踊りが続くのだが、こうして書いてみても、読者諸賢には何のことやらよくわからないかもしれない。ともあれ、完結篇となる第7のコースは〈さまざまな演目を通して「見出された時」をおこなう〉と、近藤佑子がはっきり宣言していたことは重要である。ここでいうさまざまな演目とは、三条会が上演してきた作品である。つまり、三条会という劇団の過去の検証によって、プルースト作『失われた時を求めて』の終幕を見出すという趣向なのだった。

 「失われた時を求めて」の主人公である《私》=マルセル(渡部友一郎)の親友、ロベール・ド・サン=ルー(榊原毅)が登場し、マルセルと、妻のジルベルト(近藤佑子)を紹介する。ジルベルトはマルセルの初恋の人だった。この三角関係が、今年1月に上演されたばかりの「冬物語」にシフトしていく。シチリア王リオンティーズ(榊原毅)が、帰国しようとする親友ポリクシニーズ(渡部友一郎)を引き留めるべく、妻のハーマイオニ(近藤佑子)に説得させる冒頭シーン。彼女の言葉で説得は成功するのだが、リオンティーズは妻と親友の不義を疑い、嫉妬に己を見失っていく。榊原毅(リオンティーズ)が「そしてある日、すべてが変わる」の一言をいう。彼が「冬物語」という作品において破綻に向かうことを余儀なくされた日。登場人物の時間を決定的に分けてしまう「ある日」の存在が、三条会版「見出された時」を貫く基調音となることを示唆している。

 そこから舞台は「ひかりごけ」(武田泰淳作)に転じ、五助と八蔵が死んで肉を食べられてしまったあと、船長(立崎真紀子)と西川(橋口久男)が「我慢する」ことをめぐって言い争う洞窟の場面になる。二人の対話を経て、近藤佑子が「弱法師」(三島由紀夫作)の一節-世界の終末を見てしまった直後、戦火に焼かれて光を失った俊徳の長いせりふ-を朗読しはじめる。さらに「ひかりごけ」の裁判の場面へと移り、船長(榊原毅)と検事(大川潤子)の緊密なダイアローグになる。近年みることのなかった三条会の代表作の再現に、彼らの舞台がこの数年でだいぶ変化を遂げていることに改めて気づかされる。

 「ひかりごけ」と「弱法師」とが交互に立ち現れ、今度は関美能留が「そしてある日、すべてが変わる」のせりふを言う。近藤佑子が、唱歌の「おぼろ月夜」を歌いだし、その冒頭「菜の花畑に 入日薄れ」の歌詞を受けた関美能留が「あなたは入日だと思っているんでしょう。夕映えだと思っているんでしょう。ちがいますよ。あれはね、この世のおわりの景色なんです。いいですか。あれは夕日じゃありません」と、先ほど近藤佑子が朗読した「弱法師」のせりふを、もう一度くり返す。ほとんど感情を伴わず、努めて平板に読みすすめた近藤に対して、関の語りはしだいにひどく熱情的になっていく。背後には近藤佑子のハミングする「おぼろ月夜」が流れ、やがてそこに大川潤子、立崎真紀子も加わる。女優たちの歌声に包まれて、関美能留が語る俊徳のせりふは、ダイナミックなモノローグの時間をつくりだしていた。

 俊徳がみた「この世のおわり」の景色は、以前であれば、上記のような評言であるいは事足りたのかもしれない。かつて三条会が『近代能楽集』全作品連続上演(2008年)をアトリエでおこなったとき、関美能留は「弱法師」で俊徳をやっており、今回はそれをふまえての場面だったはずだ。けれども「見出された時」において、従来とはまったく異なる思いが喚起されてしまう。つまり「この世のおわり」を-私たちも、それを見てしまったのだ。三条会は千葉市を拠点とする劇団である。大地震の体験はもちろん、その影響で、市原市の石油タンクが爆発、炎上。その朱に染まった空を見てしまった人が、演じ手、受け手の双方にいたであろうことは想像に難くない(筆者はテレビ映像を通してそれを見た)。

 これまで三条会の舞台は、原作世界に対する実感のなさ、あるいは端的に言って〈わからない〉という地平に立ち、ではそれをわかるようにするには、無理なくせりふを言うためにはどうしたらいいのか、という手続きで作品づくりがおこなわれていたように思う。それこそ「ひかりごけ」の思想や人肉食の問題などは、学生服や机といった〈学校〉また〈教育〉という枠組みによって、演劇化までの道程そのものが舞台にしめされていたのだった。けれども、今回の「見出された時」で上演された過去の作品群-殊に、誤解を恐れずに言えば〈戦争〉というある特殊状況を前提に書かれた作品の場合、かつての〈わからなさ〉が、起こった事実こそ違えど、実感の問題として〈わかる〉部分が出てきてしまった、とはいえないだろうか。少なくとも、想像の範疇に入る世界が、格段に拡大されてしまったのではないかとさえ思われる。そうした状況下で、検証された過去が現在という地点に再現されるとき、まったく同じ姿ではありえないだろう。

 俊徳のせりふが終わり、関が退場すると、「おぼろ月夜」の余韻から一転して「S高原から」(平田オリザ作)のラストシーンへ移行する。西岡(渡部友一郎)と前島(立崎真紀子)の静謐な対話に、やがて「卒塔婆小町」(三島由紀夫作)の詩人(橋口久男)と小町(大川潤子)が闖入してくる。二つの作品が同時に演じられるのだが、双方のせりふが一言ずつ、じつに巧みに縒り合わされ、絶妙な一本の流れを構築していくのである。

 見事だと思うのは、「S高原から」にみえる〈静〉の装いと、片や力強い〈動〉の勢いで演じられる「卒塔婆小町」という、一見異質な作品が、ひとつの舞台に同居していることだ。いつ終わるともしれないサナトリウムの連続的な時間の中で、常に死と隣り合わせにいるような「S高原から」の若い男女。一方で、生と死、100年の時間を言葉と観念で弄ぶような「卒塔婆小町」の詩人と老婆。平田オリザと三島由紀夫を、巧妙なせりふの再構成にくわえて、生と死の対比、時間感覚の差異という観点で連結させた手腕には驚かされる。また、それを体現した俳優の問題も見逃せない。平田戯曲の言葉を、おそらく戯曲が求める標準レベルで語る渡部友一郎・立崎真紀子と、大川潤子・橋口久男の三条会独特の強く速い発声による「卒塔婆小町」という混在。ここ最近の三条会の舞台をみていて感じるのは、明らかに演技の質が異なる俳優たちが、あるフラットな状態に共通化されるのではなくて、個々の差異が差異のまま、ひとつの舞台に乗っているということである。それが、ちぐはぐさや分離といった違和感に堕すことなく、むしろ舞台の多彩さに昇華されていることは稀有といっていい。

 俳優が俳優であることを肯定するという姿勢が、三条会の根幹にある。役になるとか、人物になりきるとかいうことではない、俳優がそのひとであることの存在感。この「S高原から」と「卒塔婆小町」の同時進行には、そうした演出が凝縮されているように思うのだ。やがて、渡部友一郎と立崎真紀子による「S高原から」が終わり、橋口久男と大川潤子が、まるで「S高原から」ふうに「卒塔婆小町」の対話をおこなう。折衷、という表現があたるかわからないが、言葉と、それを語るという行為の自在さ、レンジの広さは、三条会の特質のひとつであろう。

 百夜通いの果てに小町(老婆)への愛を告げた詩人が、100年後の再会を誓って死ぬと、ラヴェル作曲「ボレロ」が舞台に忍びこんでくる。そして、原作小説の最後の一節を、全員が1人ずつ読みはじめ、三条会が1年という時間をかけてたどり着いた終幕は、原作どおりの言葉で締めくくられる…かに見える。が、その最後のフレーズ-「〈時〉のなかに」を、俳優たちは幾度もくり返し、楽しそうにふざけ合いながら、右手の机から奥の舞台に上っていくのである。一挙手一投足に「トキノナカニ」の6文字を声に出して、ようやく6人全員が上りきったところで、出演者リストに名前のない中村岳人(彼は第4のコースを以て俳優活動を終了し、この公演を最後に退団した)も客席から参加。7人が上の舞台空間に揃った。

 本来の幕切れ(小説の終わり)を一つの着地点として、そこを越えた先の余剰に、三条会の本領がある。文字通り自分たちの過去作品という「失われた時」を再現しながら、プルーストの「見出された時」という現在を生きてきたわけだが、ここから先は、プルーストを越えた、次の時間である。榊原毅の「ただいまより、第1回〈時〉のなかに杯争奪、汽車ぽっぽ大会を開催しまーす!」の声を合図に、舞台奥の高みに並んで正座した俳優たちは第1のコースから第7のコースまでのタイトルを順に言い、陽気に「ポッポー!」と叫びながら、汽車の真似をしだすのだ。

 高まる「ボレロ」に合わせて〈汽車ぽっぽ〉を続けながら、俳優たちは全員で「ボレロ」の旋律を歌い続ける-と、関美能留が出てきて「40歳やります」と言い、線香花火に火をつける。火花を放ち、ポトリと落ちるまでの時間。そして、冒頭の俳優たちと同様、緩やかに踊りはじめる。しだいに激しく、0歳から30歳までの時間よりも長く、それは「ボレロ」が終わるまで続く。

 あまりに恣意的な見方であることを承知でいえば、演出家は3月19日に39歳になった。ここまで失われた時を求め続けてきた彼が「40歳をやる」ということは、つまり1年先の未来を、そこでやってみせるわけだ。だからといって、これが関美能留という演出家の物語である、などと結論づけるつもりはない。しかし、あえて言うならば、これはたしかに三条会という劇団の物語であった。思えば、三条会版「失われた時を求めて」は、上演の時々に直面した自分たちの〈いま〉を作品に刻みこんできたのではなかったか。一例、見そこねた第4のコースには、俳優活動の終了を宣言した中村岳人の〈引退〉が劇の一場面として組みこまれていたらしい。第5のコースの趣向が、スズナリの「冬物語」に生かされていたり、今度はそこから第6のコースの趣向が生まれていたりと、直近の過去をも次から次へと重ねつつ、第7のコースにたどり着いたのである。

 また、三条会を追い続けてきた筆者にとって、学校の机、椅子、チャイムなどの装置は、かつて〈学校〉という枠組みでさまざまな作品を舞台化してきた三条会の「失われた時」が眼前に現れたような感興をもよおさせた。プルーストが『失われた時を求めて』という遠大な小説を〈書く〉という行為によって見出した《時》があるとすれば、三条会はその行為じたいから、プルーストという作家性に迫ろうとする。三条会という劇団を主宰する関美能留という演出家が、演劇という表現で以てそれをおこなおうとするならば、劇団そのものの過去の検証にたどり着くのは、ごく自然な成り行きだった。

 三条会版「失われた時を求めて」の全篇で開演前にかかっていた「ボレロ」によって、完結篇の「見出された時」は幕を下ろす。この円環は、新たな《時》のはじまりを暗示するものであり、鳴り響く「ボレロ」と俳優たちの〈第1回〉汽車ぽっぽ大会を背に、1年先の時間を踊り続けた関美能留の身体こそ、プルーストを経由して三条会が見出した《時》のありようである。

 踊るということは、いま・ここにある身体が、どうしようもない衝動に駆られて躍動することであろう。それまで、プルーストの言葉だとか、過去に上演してきた作家たちの言葉によって支配されていた「見出された時」の舞台が、自由になる瞬間であった。独断の大鉈を振るって極言すれば、作家によって書かれた言葉を語るという行為は、あくまでも過去の検証であり、その再現に過ぎない。刻一刻と変わる〈いま〉と、絶えずやってくる未来という《時》を、関美能留は〈踊る〉という、きわめて現在的な行為によって生きようとした。どこまでも続くかに見えた「40歳」の《時》は、突如終わる「ボレロ」によって、断ち切られる。しかしその直後には、俳優たちの「おわり!」という、とびっきり明るい句点が付されていた。この明るさが、三条会の三条会たる所以なのだと、殊更に思う。

*

 こうして、今や失われた「見出された時」を求めてきたのだが、果たして読者諸賢に何かしらの景色をお見せできたのかどうか、甚だ心もとない。言葉は、舞台のたのしさをいくらも語りはしない。とにかく一見を、としか言えないのもまた事実である。しかしながら、長々と書き連ねてみて、これがわずか1時間5分の上演だったということを改めて考えたとき、たとえば、渋谷の大きな劇場でみる3時間の舞台と較べて、その密度の濃さは圧倒的である。くわえて驚かされるのは、三条会の即時性である。震災後、多くの劇場が公演の続行、中止の判断に迫られた。その是非は問題ではない。わかりやすい例を挙げよう。NODA・MAP「南へ」(東京芸術劇場)は、3月11日の地震当日から3日間休演したが、ただちに上演を再開した。日本経済新聞の内田洋一の取材に対して野田秀樹は「今回の大地震と原発事故に、どのように向き合うかで、我々表現者の資質も問われることになるだろう」と答えている。

 驚いたのは震災以後に虚構の意味が変わったこと。以前、米国と石油の話を扱った「オイル」を上演中にイラク戦争が起き、せりふの受け取られ方が変わったこともあるが、今回は場所が近いだけに比喩の意味が大きく変わった。再開直後の客席は高い緊張感に包まれた。(『日本経済新聞』2011年3月31日夕刊)

 虚構の意味、比喩の意味ばかりではない。もともとその言葉がもっていた意味作用さえ、途方もない現実の前では、まるで変わってしまう。たとえば「卒塔婆小町」の詩人(橋口久男)が、小町(大川潤子)に向かって「何時間かのちに、いや、何分かのちに、この世にありえないような一瞬間が来る。そのとき、真夜中にお天道さまがかがやきだす。大きな船が帆にいっぱい風をはらんで、街のまんなかへ上って来る。〔…〕大きな帆船が庭の中へ入って来る。庭樹が海のようにざわめき出す」というせりふを語るとき、本来はロマンチックな場面を現出するはずの言葉が、まったく異なるおそろしい風景を、私たちの脳裏に描きだしてしまう。

 先の「弱法師」も同じことが言える。私たちは、直接ではないにもせよ、メディアを通して、まさに世界が終わっていく様をこの目で見てしまった。そして、少なからぬ影響を受けて日々を送っている。体験がすべてとはいわない。けれども、たしかに「すべてが変わ」った「ある日」を体験した私たちの身体は、そこから自由でいられるはずがないだろう。変わったのは、観者の受けとり方だけではない。あえて断定的にいえば、演じ手と受け手が共有しうる感覚を以て、演じ手が舞台上で言葉を発する。しかも、その感覚と語られる言葉との間には、以前は存在しなかった接続が生まれてしまった。そうした現実を経由した俳優の身体が言葉を語るとき、それはもうかつてと同じ言葉ではありえないのである。賢(さか)しがって贅言を付すならば、三条会版「見出された時」が過去として召喚した作品群は、この先ありうべき言葉と身体の関係に、かつてない問いを投げかけた、と言ってしまってもいい。

 それ以前から上演されていた作品は「ある日」を境に見え方が変わり、一方「ある日」を経て新しいものが生まれる。おそらく今後、震災という現実と向き合った作品がつくられていくのだろう。しかし三条会は、まさに震災という出来事を通過しながら、その真っ只中で作品づくりをおこなっていた。あの「〈時〉のなかに」いたという現実が、舞台の中に生きている。にもかかわらず、けっして悲壮感では終わらない、笑いと明るさにあふれた時間であったことは、改めて特記せねばなるまい。印象的だったのは「弱法師」のせりふを語る関美能留の身体が、感情と言葉の昂ぶりとともに前へ傾いていく場面。クライマックスの「どこもかしこも火だ。〔…〕僕のほうへまっしぐらに飛んでくる。僕のまわりをからかうようにぐるぐるまわる。それから僕の目の前にとまって、僕の目をのぞき込むような様子をしている。もうだめだ。火が! 僕の目の中へ飛び込んだ……」に至って、関自身が火の中(ここではアトリエの床面)へ、ほとんど吸いこまれんばかりに倒れかかるのだが、渡部友一郎が後ろから関のコートの裾を掴み、全身で踏ん張って引き戻そうとする。そこにはたしかに、救いがあった。

 そして、ラストシーン。俳優全員揃っての「第1回〈時〉のなかに杯争奪、汽車ぽっぽ大会」の前進していくエネルギー(蒸気機関!)に、再生への希望をみたのは、けっして大げさではない。直接的には被災していなくとも、みんながしょげ返っていた時期である。3月24日初日。電車の運行状況や停電など、日常に近接する不安要素は、5月を目前にした現在よりも果てしなく深刻だった。計画停電の対象外にあった都心の劇場でみる芝居とは、どう考えても違うのであって、これが千葉という場所でつくられ、上演されたことの意義は大きい。カーテンコールの「Stand By Me」に、多くの人びとが線路や舗道を歩いて帰ったあの夜を思いだしながら、胸のうちの暗雲を吹き払われたような心持ちになったのは、筆者ひとりではなかったはずだ、きっと。

 もしかしたら、作家や音楽家など、個で動ける立場の人ならば、現実に対応して作品をつくり、発表することもできるかもしれない。けれども演劇という集団芸術において、それがなされたことは特筆すべきだろう。それも、ユニークな演出スタイルをもつ関美能留が主宰をつとめていたこと、一年という時間をかけて「失われた時を求めて」と付き合い続けた蓄積があったればこそ可能だった。また小規模のアトリエ公演という自由度も、この舞台を可能にした一因である。小さなコミュニティで、現実に即応した作品をつくる。昨今プロデュース公演も流行っているが、出来合いのカンパニーでは到底届かない場所に、三条会版「見出された時」はあった。それは、三条会という《時》の積み重ねの上にこそ、見出されえた《時》なのである。

 初夏には、劇団の代表作の一つ「ひかりごけ」を男優だけの完全新演出版で、ロングラン上演するという。プルーストを通して失われた時を求めたあと、また未曾有といわれる大震災を経験したあと、どのような「ひかりごけ」が舞台に立ち現れるのか。期待、というよりも、その場に居合わせてみたいと思わされるのが、三条会を追い続けている理由のひとつにあるような気がする。

*

 終演後、俳優の苦労を思いながらも、演出家に「第1のコースから第7のコースまで、通しでみてみたい」と伝えると、もう中村岳人がいないから、と笑った。そうですね。いま4月も終わりに差しかかって、世界は少しずつ、失われた《時》を取り戻しつつあるかに見える。けれども、一度失われてしまった《時》は二度と同じ形で帰って来はしない。失われた《時》を求めて、それを見出すことは、かつてあった《時》をそのまま取り戻すことではなく、過去の検証を通して、新たに来る〈いま〉を、そして次の《時》のありようを見出すことに他ならないのだろう。3月11日があって、3月24日(そういえば初日をみたのだった)があって、この小文を書いている4月24日という三層の《時》がある。地震当日と、上演のリアルタイムと、現在との距離を、しっかりと心に留めておかなくてはならない。そして「ある日」を境に、日常がすっかり変わってしまったことを真摯に受け止めて、その上で前にすすまなくてはならない。自分のいる場所で、自分のいる《時》のなかで…。そんなことをぼんやり考えていたら、でもさ、と、失われた《時》の向こう側にいる演出家は続けた。「第8のコースから第14のコースならつくれるよ。…やらないけどね」-んもう。

*注記:マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の小説については、鈴木道彦氏の完訳版(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を参照。三島由紀夫『近代能楽集』の引用は新潮文庫版を用いた。

付記:当日配布パンフレットに「三条会アトリエ 寄付のお願い」という1枚の紙片が挿まれていた。そこには「このアトリエで活動を始めてから6年がたちました。経済的な理由から、この「失われた時を求めて」終了後にこのアトリエを失くすことを考えていました。震災前に、劇団員全員と会議して、継続していこうという結論を出したのですが、経済的にきついのは変わりなく、いくら集まるかは分からないけど、寄付を募ってみようかという話にもなりました。そして、震災が起きて、今、自分たちのために寄付を募る行為をすることは非常にしにくくなってしまいました。でも被災者のためにではないけれど、演劇活動のために寄付を募るのは悪いこととも思えません。よろしくお願いします」(関美能留「アトリエの維持、発展に向けて。」全文)と書いてあった。後日、アトリエの契約を更新したと知り、すこしほっとした。次回作「ひかりごけ2011」が、三条会アトリエでつくられ、上演される。じつに何よりである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第238号、2011年4月27日発行。無料購読は登録ページから)

【著者略歴】
 後藤隆基(ごとう・りゅうき)
 1981年、静岡県生まれ。立教大学大学院文学研究科日本文学専攻。日本近現代演劇。

【上演記録】
三条会「失われた時を求めて~第7のコース『見出された時』~」
三条会アトリエ(2011年3月24日-28日)
原作:マルセル・プルースト
構成・演出:関美能留

出演:
渡部友一郎、榊原毅、橋口久男
近藤佑子、立崎真紀子、大川潤子
関美能留

制作:久我晴子
チケット料金:\2,000


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